第二次世界大戦
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第二次世界大戦 | |
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左上:万家嶺の戦い 右上:第一次エル・アラメイン会戦 左中央:スターリングラード攻防戦 右中央:東部戦線におけるシュトゥーカ急降下爆撃機 左下:降伏文書に署名するドイツ元帥ヴィルヘルム・カイテル 右下:リンガエン湾侵攻 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日 | |
場所:ヨーロッパ、アジア、太平洋、北アフリカ他 | |
結果:連合国の勝利
世界秩序の変革(第二次世界大戦の影響) | |
交戦勢力 | |
連合国 大英帝国
ソビエト連邦(1941-) 共同参戦国 | 枢軸国 ドイツ国 大日本帝国 イタリア王国(1940-1943) イタリア社会共和国 (1943-) ルーマニア王国(1941–1944) ハンガリー王国(1941–1945) フィンランド(1941-1944) ブルガリア王国(1941–1944) タイ(1942-1945) ビルマ国(1943-1945)など 非宣戦国家 |
指導者・指揮官 | |
ジョージ6世 ネヴィル・チェンバレン (-1940) ウィンストン・チャーチル (1940-1945) クレメント・アトリー (1945) ヨシフ・スターリン フランクリン・D・ルーズベルト (1941-1945) ハリー・S・トルーマン (1945) 蒋介石 アルベール・ルブラン (-1940) シャルル・ド・ゴール(1940-) ヴワディスワフ・シコルスキ ロバート・メンジーズ ジョン・カーティン ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング 第2代リンリスゴー侯爵(-1943) 初代ウェーヴェル子爵(1943-) | アドルフ・ヒトラー (1939-1945) カール・デーニッツ(1945) 昭和天皇 東条英機(-1944) 小磯國昭 (1944-1945) 鈴木貫太郎(1945) ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 ファイサル2世 |
損害 | |
死者 軍人1,700万人 民間人3,300万人 (諸説有り) | 死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説有り) |
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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、独: Zweiter Weltkrieg、英: World War II、略称WWⅡ)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。
枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。また、イタリアなど連合国に降伏した後に、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとは見なされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。
第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋・インド洋全域を含むものに分けられる。このうちドイツとイタリア等とイギリスとフランス、ソ連、アメリカ等の戦いを欧州戦線、日本等とイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ等の戦いを太平洋戦線と大別する。欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランスが枢軸国と戦った西部戦線及び北アフリカ戦線と、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。太平洋戦線は太平洋戦争と呼称され、日本とイギリス、アメリカやオーストラリアが戦った太平洋戦域、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、インドシナなどで日本とオランダやイギリス等が戦った南西太平洋戦域、ビルマやインド、セイロンやマダガスカルで日本がイギリスやアメリカ等が戦った東南アジア戦域、そして中国大陸で日本と満州国が中華民国やアメリカと戦った日中戦争に分けられる。しかし、これら以外にオーストラリアや中南米、カリブ海等でも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
第一次世界大戦と比較すると、共に総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されたので、暗号解読により主要な作戦伝達や戦果がもたらされた[1]。使用された兵器も、航空機や戦車などの著しい発達に加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器まで登場した。
総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しない、という態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。
またドイツは、自国及び占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量殺りくを戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1200万人のドイツ人が追放され[2]、その途上で200万人が死亡している[2]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリア等で強制労働させられた。
戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まり、多くの国々が独立し、結果として欧州列国の地位は著しく低下したが、こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
目次
1 背景
1.1 ヴェルサイユ体制
1.2 モンロー主義の動揺
1.3 共産主義の台頭
1.4 大恐慌とファシズムの台頭
1.5 宥和政策とその破綻
1.6 勃発直前
2 経過(全世界における大局)
3 経過(欧州・北アフリカ・中東)
3.1 1939年
3.2 1940年
3.3 1941年
3.4 1942年
3.5 1943年
3.6 1944年
3.7 1945年
4 経過(アジア・太平洋)
4.1 日本の参戦(1937年‐1941年)
4.2 1941年
4.3 1942年
4.4 1943年
4.5 1944年
4.6 1945年
5 戦争状態の終結と講和
6 戦時下の暮らし
6.1 日本
6.2 ドイツ
6.3 フランス
6.4 イギリス
6.5 アメリカ
6.6 ポルトガル
7 影響
7.1 損害
7.2 戦後処理
7.3 戦争裁判
8 新たに登場した兵器・戦術・技術
8.1 既存兵器の変化
8.2 新たな兵器
8.3 兵站と機動
8.4 戦術
8.5 技術・代用品の開発・製造
9 評価
9.1 植民地戦争時代の終結
9.2 大戦と民衆
9.3 『よい戦争』
9.4 民主主義と戦争
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
背景
ヴェルサイユ体制
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[3]。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[4]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[4]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[5]。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[4]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。
戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺
ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新された。しかし同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法が、交戦国への借款も禁止した。1937年5月1日にも改正されて、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画が後に第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止すべく、欧米列強はシベリア出兵等で干渉したが失敗した[6]。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑等で約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)[7]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立し、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばし、これを食い止めようとする各国の右派からファシズムが生み出されることになった。
大恐慌とファシズムの台頭
ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[8]勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立。
同じく戦勝国の日本では、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され議会制民主主義化が根付き「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には日英同盟が解消された。
敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。
英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられ、また失業者が増大した。
金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。日本では恐慌状態(昭和恐慌)となり、都会では失業者があふれたほか、農村では子女の身売りが相次いだ。そのような中で、既存の政党政治に不満を持つ軍部の一部が1932年に起こした「五・一五事件」や、1936年に起こしたクーデター未遂事件である「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、1937年には日中戦争が勃発する。
アメリカの資金で潤っていたドイツでは失業者が激増、政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[9]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。
1933年1月にナチ党は政権獲得に成功。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。
宥和政策とその破綻
英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行。これによってロカルノ体制は崩壊した。
そのころ日本は1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していく(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。ドイツ、イタリア、日本の三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニア等領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れない、と考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチスがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう英仏ポーランドに要請した[10]。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(全世界における大局)
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻が第二次世界大戦の始まりとされている。9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍はポーランドへ侵攻し9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もナチスの伸長に対する防御やバルト三国及びフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。
1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、同年9月には上陸作戦は断念する。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。
1941年6月にはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。そのため戦争はより激しく凄惨な様相となった。12月8日(日本時間)には日本がイギリスのマレー半島を攻撃し、続いてアメリカの真珠湾を攻撃。イギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に宣戦布告し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は全世界に広がった。
1942年に日本軍はイギリスやオランダ、アメリカの植民地のマレー半島や香港、フィリピン、ビルマそしてインドネシアを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。日本軍はインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出したものの、同年6月5日にはミッドウェー海戦で日本海軍は敗北する。しかし同月に日本軍はアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲しその後アッツ島とキスカ島を占領したほか、アメリカ本土への空襲を行うなど各地で勝ち進んだ。
1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続けるなど勢いを保ったが、この頃になるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。しかし日本軍はガダルカナル戦[11]で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年中盤には勢いを失い以降劣勢となる。ヨーロッパ前線においても同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。さらに9月にはイタリアが降伏しその後同国北部をドイツ軍が占領する。
1944年にヨーロッパの連合軍はフランスに上陸。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋ではマリアナ沖海戦やビルマでインパール作戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、日本本土への空襲が始まった。さらにアジア各地の陸戦でも劣勢となった。
1945年に入ると連合軍はドイツ本土へ侵攻、追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏し、ヨーロッパの戦争は終結した。日本も東京大空襲など連日連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権を失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することを良しとせず戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下、同8日のソ連軍の参戦、という事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)
1939年9月1日 、ドイツ軍及びスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告し、これが第二次世界大戦の始まりとなった[注釈 1]。ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。さらにフィンランド及びバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[12]、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。
その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側に付き、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年2月にはスターリングラードでドイツ軍は大敗し、これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸して来た連合国軍と対峙することになる。
1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割等を決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年
9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべも無く殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦し、8月23日に結んだ独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定が有ったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国はドイツに宣戦布告はしたが、ポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。一方ヒトラーも、英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[13]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に「たぶんクリスマスまでに停戦だろう」、という根拠の無い期待が広まった。11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるがその日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたが全て失敗に終わった。
ソ連はバルト三国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。しかし、フィンランドはソ連の基地使用及びカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。
一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述している。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 2]。なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「[[自由フランス国民委員会]]」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
7月3日、イギリス海軍H部隊が、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張るあり様であった。この年の9月27日、ドイツ、イタリア、日本は日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年
3月11日、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、ソ連・イギリス・中華民国などのドイツや日本との交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 3]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど東地中海[注釈 4]を確保し反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン半島の戦い)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア、ハンガリー、ルーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 5]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつて無い深刻な敗北を喫した。
8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。
ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離をおいていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保したうえで、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。
一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。
ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポとナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人やレジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中で反ヒトラーの陰謀を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍と、アメリカ軍の基地のある真珠湾を攻撃し(真珠湾攻撃)、太平洋戦争が勃発した。12月8日にアメリカとオランダが日本に宣戦を布告[14]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
1942年
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。
8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
インド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、ドイツからの依頼もありマダガスカル島へ進出し、マダガスカルの戦いに参戦しイギリス軍の船舶を撃破したほか、ドイツ海軍は大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域からゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、シンガポールやペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。
この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにおいてナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行われた。これ以後、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。
大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。
1943年
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。しかし、3月には、マンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日、ドイツへ宣戦布告した。
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にはイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかしこれらの潜水艦は、日本軍占領下に到着後まもなくイタリアが降伏したためドイツ軍に捕獲された。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。
さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14 - 24日ケベック会談、10月19 - 30日第3回モスクワ会談、11月22 - 26日カイロ会談、11月28 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年
1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からは夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 6]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦で全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田喪失でドイツの石油供給は逼迫する。
一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながら上陸した。ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[15]、女性たちは強姦された[15][16]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 7]。
ドイツ軍は、上陸後の連合軍の進撃を食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついに戦線は突破され、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。8月16日には南フランスにも連合軍が上陸した(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。ドイツ軍はパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、国外へ亡命する者もいた。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍は開発中の、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化し、実戦投入したが、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは不可能だった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[17]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、戦線を一時的に約130km押し戻された。また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる。
この頃ナチス・ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。
なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
1945年
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵やまともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。
4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった[18]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという。
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌5月8日午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ヨーロッパ戦線での連合軍とドイツ軍の戦闘はプラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員がバチカンやスペイン、ノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリなどの南アメリカ諸国に逃亡した。
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相[注釈 8]、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が行われた。一方で、この会談のさなかには日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も行われている。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[2][19]。
経過(アジア・太平洋)
日本の参戦(1937年‐1941年)
1937年に始まった日中戦争最中の1938年3月、ナチスのオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣のもとで野党は反対勢力を失い、国家総動員法が成立した。さらに1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職し、対独同盟派の勢いは停滞した。
しかし1940年1月に日米通商航海条約が失効し、日米関係は開国以来の無条約時代に突入し、情勢の打開が求められた。同年6月にフランスがナチスに降伏し、枢軸国の勢力が拡大するに及び、7月には参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。第2次近衛内閣においては枢軸国との提携を主張する松岡洋右外相らの声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。ヴィシー政権成立後の9月22日には、フランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。ルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけており、10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止した。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。また他方でオランダ領東インド(インドネシア)政府との石油等物品の買い付け交渉が行われていたが、6月17日に交渉は打ち切られた。
1940年12月6日には同じ近衛内閣直属の情報機関である情報局が発足し、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的とした活動が開始された。
アメリカは1941年、中立法に現れていた非介入主義をさらに緩和し、3月には集団的自衛権行使等の目的でレンドリース法を設置した。4月からは日米交渉が本格化され、一時は「日米諒解案」に沿った合意が形成されつつあったが松岡外相の反対で白紙に戻った。松岡は三国同盟にソ連を加えたユーラシア四ヶ国同盟締結を構想していたが、6月22日の独ソ戦開始はその望みを打ち砕いた。松岡は即時対ソ宣戦を主張したが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、松岡は事実上更迭された。6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった(南進論)。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。
7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し、同日日本は南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油禁輸をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。8月1日、アメリカは日本を含む「全侵略国」に対する石油禁輸に踏み切った。対日制裁にはイギリスやオランダ領東インド政府も追随し、日本ではアメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、10月末を目処とした開戦準備が決定された[20]。アメリカは8月に大西洋憲章を締結したイギリス首相チャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
10月12日に近衛首相は五相会議を開いたが、日米交渉妥結の可能性があるとする豊田貞次郎外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條英機陸相の間で対立が見られた[21]。10月16日に近衛は突然辞職し、重臣会議で東條内閣成立が決まった。この推薦には東條しか軍部を押さえられないという木戸幸一内大臣の強い主張があった。10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[22]。
10月14日に日本は最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。11月6日には帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤなどの攻略を目的とする南方作戦準備が指令され[23]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[24]。11月26日早朝に日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。11月27日(アメリカ時間11月26日)アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈し、事実上の最後通牒と認識した。一方でこの文書には「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれており[25]、この文書が最後通牒であったかについては論争がある。
12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。
1941年
1941年12月8日午前1時30分(JST)、日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、タイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アジア太平洋戦線における戦闘はこの時間に開始されたのである。
佗美支隊はイギリス陸軍に苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲によりイギリス空軍の飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。
日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。
日本の、日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった[注釈 9]。なお、イギリスへの攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への交渉打ち切り文書の交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間以上遅れた。日本側では、宣戦布告文書として扱われているが、実際には、開戦を示唆する記述はない。
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国や中華民国南京国民政府[注釈 10]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定していた。さらに、ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた。同日、日本陸海軍機がフィリピン[注釈 11]のアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には最大の基地があるルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領。
12月18日にはイギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の香港攻撃を開始した。日本陸軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退し、25日に日本陸軍はは香港一帯を占領した(香港の戦い)。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が確定した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった[注釈 12]。
1942年
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。1月に日本はオランダとも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[注釈 13]、ジャワ島とスマトラ島[注釈 14]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。
2月、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。翌日には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃をおこなった「ロサンゼルスの戦い」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でイギリス、オランダ海軍、アメリカを中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、連合国は連戦連敗により、アジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したまま大勢の捕虜を残したままオーストラリアに逃亡した。
また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。4月18日には日本海軍の相次ぐアメリカ本土攻撃に対する報復として、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えた。この空襲は、戦時戦闘と無関係な無辜の一般市民を攻撃してはならないとする国際法に違反した攻撃だったからである。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 15]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 16]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させるなどの戦果をあげている。
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみであった。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
しかし日本海軍は、同年6月に行われたアメリカ軍のアラスカのダッチハーバーへの空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲をおこない、大きな被害を出すことに成功した。さらに6月20日には、乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった
翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。この攻撃もほとんど被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にある米軍基地への攻撃としては米英戦争以来のものであった。このように、日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗したに思えたが、アメリカ側もまだまだ反攻作戦をするだけの体力はなかった。
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカ・オーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
9月には日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府もまた、爆撃があった事実をひた隠しにする。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北したが、アメリカ軍も太平洋戦線での稼動空母が皆無という厳しい立場にあった。
日本軍の攻勢はその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、年末になっても継続して行われ、同地のオーストラリア空軍の基地に大きな被害を出していた他、インド洋からイギリス海軍海軍を放逐するなど、その勢いは落ちてはいなかった。
1943年
この年に入ってもオーストラリア北部に対する日本軍の空襲や攻撃は継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇パトリシア・キャムを撃沈させた他、ダーウィンの燃料タンクを破壊するなどの戦果を挙げていた。同月に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈するという戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっており、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
なおこの頃ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、「第一次アキャブ作戦」によりビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしインド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。
4月18日に、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[注釈 17]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、この年の中盤に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。のみならずオーストラリアやイギリス、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を弱体化させる結果となった。
一方5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。しかし南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍に完勝する。
なおこれ以前からシンガポールやペナンにおかれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ」もこれに加わった。しかしシンガポール到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT25」と改名した(さらに同艦は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった[26])。
ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、イギリスからの独立運動を行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ・シンガポールや香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。さらにビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始した。
これ以降は、ようやく態勢を立て直したイギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、戦線を伸ばしすぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は次第に後退を余儀なくされていく。
1944年
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
5月頃には、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍の建軍以来最大の攻勢が開始された(大陸打通作戦)。作戦自体は12月まで中華民国軍とアメリカ軍を相手に続くが、計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に移動せざるを余儀なくされた上、結果的に最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。
しかし、昨年半ばまでは勢いを保ち続けていたものの、予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
6月に、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月にはかつてアメリカから奪取したテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。
アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四百型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資やバナナやコーヒーなどをほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。また、この事による日本本土の生活への衝撃は大きく、これ迄は配給となる物もあったはものの、レストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給をうけて成り立っていたものの、これ以降はこれらに対する配給も制限されていくことになる。
ビルマ戦線がイギリス軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、アメリカ軍海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
1945年
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、バシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。マニラの戦いでは、日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたスペイン人200人以上が死亡し、旧市街のスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交した。
なお日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、臨時政府によるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかった。
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(圧倒的戦力を有するもののアメリカ軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。これ以降アメリカ軍は死傷者の多くに慎重になる。
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化していた。3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされることになる。
低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m の五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「橘花」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカやイギリス海軍の空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
4月1日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は沖縄本島へ上陸して沖縄戦が勃発。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、ここに日本海軍連合艦隊は事実上その戦闘能力を喪失した。
連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員による持久戦で、連合軍を苦しめたが、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。沖縄での日本軍の持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止せざるを得なくなる。
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。連合軍は沖縄での膨大な被害を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦を中止に追い込む一因となった。[要出典]
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にもさらなる惨禍をもたらすことになった。
またアメリカ、イギリスやオーストラリアを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上が死亡した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、必死に反撃を行うも総崩れとなった。降伏決定が報道された8月10日以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。
また、ソ連参戦とその後のソ連軍の日本の降伏後の違法戦闘で、満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成されたソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。
日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、8月10日の御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。8月14日、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
8月16日、タイは日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した[27]。日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。その他占領地に日本が構築した諸政権も次々に崩壊した。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍、ソ連軍、カナダ軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリス、オーストラリア、アメリカ、中華民国、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[注釈 18]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結した。
戦争状態の終結と講和
連合国軍が進撃した地域と、降伏文書調印後の日本本土および台湾、朝鮮半島などには連合国軍による占領統治が開始された。旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[28]。
ドイツに関しては占領状態が続き、その後東西に分裂したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ(西ドイツ)との戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ民主共和国(東ドイツ)との戦争状態終結を宣言している。1990年にはドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域は確定して最終的な講和が実現し、1994年にはドイツ駐留ソ連軍が撤退した。
また大多数の連合国と日本との講和は1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)によって行われ、日本は占領状態から解放された。この条約にはソ連などが参加しておらず、特にソ連および承継国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。しかしロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は個別に戦争終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的にすべて終結している。
戦時下の暮らし
日本
- 日用品・食料
日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。
また、国家総動員法のあおりを受けて、1940年東京オリンピックと同年開催の札幌オリンピックが中止となった。さらに、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入されたが、生活必需品や食料の生産及び流通はこれまでと変わらず、レストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われ、繁華街では相変わらずの賑わいを見せた。
1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[29]他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。
ただし、引きつづき食料の配給の優遇を受けていたレストランや食堂、ホテルや旅館などで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食料の調達も可能になった。このために戦後のテレビドラマで見られるような「戦中」の飢えた姿は真実ではなく、大戦終結の前年の1944年の暮れ頃までは生活必需品や食料が不足することはなかった[30]。
その後南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1945年初めになると、コーヒーやバナナなどの外地からの食料のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が減ったことから、食料の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していったため、農家などによる闇取引が盛んになった[31]。なお連合国軍の潜水艦は日本の商船を532万トン撃沈した。攻撃対象として商船がほとんどの割合を占めたことから、潜水艦隊が通商破壊を意図していたことは明確であった[注釈 19]。電気やガスについては、燃料や原料の石炭が日本国内で自給できたため滞る事は無かった。
しかしながら1945年も半ばに入ると、連合国軍機による相次ぐ空襲によって発電所や工場、鉄道や国道が破壊され供給が滞るようになった。その他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。なおこのような窮乏生活は終戦後も2、3年間続くこととなった。
- 空襲
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものにすぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[29]。しかし連合国軍機の空襲が1944年6月の九州北部からはじまり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面にも空襲が始まった。
1945年に入ると空襲の回数が増え、沿岸地域ではアメリカ軍艦による艦砲射撃やイギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。さらに、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が、南樺太や北方領土の島々では停戦後にも関わらずソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
- 教育
日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。1941年の国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による基礎教育、中等教育は変わらず行われたものの、本土に対する連合国軍機の空襲を受け、1944年8月4日には学童疎開が開始された。対英米戦の開戦以降も大学や高等専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化した1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。また熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員。精密機器である軍事兵器が非熟練工によって製造されることの危険性は十分考慮されるべきであったが、政府、軍ともに顧みることはなかった。その上の無闇な量産体制が乱造を招き、当然、製造される戦車・航空機などの各種兵器の稼働率は低下した[要出典])。
対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、民間の間で「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された上、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされた。しかし、東條内閣は「英語教育は必要である」としていた[29]。
- 娯楽・スポーツ
1940年に開催される予定であった東京オリンピックは、日中戦争の激化により開催権返上を余儀なくされた。高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたものの、プロ野球はその後も継続して開催され1944年夏まで開催された。
日中戦争当時より娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、この頃より欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作されるようになった。対英米戦開戦後には映画配給社により映画の配給が統合され英米の映画が配給禁止となったものの、その後も多くの娯楽作品が制作され、終戦の月に至るまで映画の製作と配給は継続された。
日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具、中でも「のらくろ」は大ヒットし、空き地では「のらくろ」をもとにした戦争ごっこが定番になったが、1941年に「兵士を犬に例えるとは不謹慎」とされ連載中止された。
- 言論と思想の統制
対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、朝日新聞や報知新聞などの右寄りの新聞や、さらに「隣組」を通じて管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求されたが、国民の間では政府に対する批判も行われた他、雑誌などでは政府批判も比較的自由に行われた[29]。
しかし、東條内閣になった後は、戦争に反対する言論、特に共産主義者などの思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧し、この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
- 外地
日本の統治下にあった朝鮮半島は大きな戦禍に見舞われなかったものの、大戦終盤には連合国軍機の空襲を受ける地域があった他、1945年8月には、かねてから朝鮮半島に対する領土的野心を持っていたソ連軍が東北部に侵攻した。また主要植民地の1つで、重要な軍事戦略拠点であった台湾島も、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受ける地域があった。
- 在日外国人
日中戦争開戦後もタイ王国や満州国、欧米諸国の駐在員や外交官の多くは、日本やその植民地で戦前と変わらない生活を行ったが、対英米開戦後には、日本とその占領地、そして枢軸国として参戦したタイ王国や満州国に取り残されたイギリス人やアメリカ人は開戦後軟禁、逮捕され、1942年から1943年にかけて3回運航された交換船で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人と交換される形で帰国した[32]。なお日本の大学などで教員についていた適性外国人は、開戦後も暫くの間はその地について仕事に就き通常の給与が与えられた。
ドイツやイタリア、タイ王国やフランス(ヴィシー政権)などの同盟国や、スウェーデンやスイス、バチカンやソ連などの中立国の外交官や駐在員、ジャーナリストは、英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、ヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同盟国の外交官や駐在員のみならず、中立国の駐在員や外交官の多くも本国への帰国もままならなかった。なおドイツやタイなどの友好国や、ソ連やトルコなどの中立国の外交官の多くは、1945年以降に本土への空襲が増加した後は軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。
約3,000人の在日ドイツ人は外交官や軍関係者のみならず、駐在員の多くが対英米戦開戦後も日本に残留したほか、封鎖突破船やUボートの乗組員などのドイツ軍人は日本国内やシンガポール、ペナンなどの占領地に駐留し、横浜やシンガポールなどに残留した封鎖突破船が日本占領地の近隣地域における連合国軍との戦闘や、日本の占領地間の輸送に従事した。なお反ナチス的なドイツ人を取り締まるために、駐日ドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部の将校であるヨーゼフ・マイジンガーが駐在したほか、東京だけで500人いたナチ党を中心とした住人組織が置かれた。しかし1945年5月のドイツの敗戦後には、占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態におかれ、戦争終結まで富士五湖近辺などの地方の別荘地などに送られた[30]。
数百人の在日イタリア人は、1943年9月のイタリアの敗戦後にはサロ政権側に付くか否かでその地位が振り分けられた。サロ政権に就くことを拒否したものは、警察の監視下のもとで軽井沢などで軟禁状態におかれることとなった。またペナンなどに進出していたイタリア海軍の将兵も、サロ政権側に就くか否かでその地位が別けられた。
数百人の在日フランス人は、1944年のヴィシー政権の崩壊後も、フランス領インドシナの植民地政府が日本との友好関係を保っていたために、ドゴール側に付くことを表明した外交官以外の在日フランス人は中立国民と同様の扱いを受けていたものの、1945年3月に行われた日本軍によるフランス領インドシナの植民地政府への攻撃(明号作戦)以降は軽井沢などで警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。
またオランダ領東インドに住むオランダ人は、1940年5月のヨーロッパ前線開戦以降は間もなく本国を占領下に置いた在日ドイツ大使館の保護下に、1941年12月の日本のオランダ領東インド進出後は日本軍の保護下に置かれた。
ドイツ
総統アドルフ・ヒトラーは大戦中、可能な限り国民生活水準の維持を考慮せざるを得なかった。これは第1次世界大戦の敗北が、社会主義者等、国民の裏切りによるもの、とヒトラーが見なし、同じ失敗を繰り返すのを懸念したからだった。しかし、食糧や生活必需品が配給制となることは避けられなかった。敗戦間際までドイツの喫茶店ではコーヒーを飲むことができたが、実際に供されたのは代用コーヒーであった。また、ソ連軍が侵攻する直前まで、牛乳配達や新聞配達が途絶えることは無かったという。
その一方、国民の裏切りを防止するため、各地に強制収容所を設置し、秘密警察ゲシュタポが国民生活を監視。反政府・反戦的言動を徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘン大学生の反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスは有名な「総力戦布告演説」を行い、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始された。軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力により、1944年には激しい空襲下でもドイツの兵器生産はピークに達した。
連合軍の空襲はすでに1940年から開始され、1942年5月にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。
総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレー等、庶民の娯楽の場が次々と閉鎖された。そのような状況にもかかわらず、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団等、ドイツのみならず世界を代表する楽団は敗戦直前まで何とか活動を続けた[33]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭い、それがドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるため西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いには、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポや親衛隊は、逃亡兵や敵への内通者と見なした市民を即席裁判で処刑して回ったという。また各地の強制収容所は敗戦間際には、劣悪な環境と食料不足から伝染病が蔓延し、多数の死者を出した。その惨状は進駐した連合軍に強い衝撃を与えた。
フランス
- 本土と植民地
開戦後、ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いたが、ドイツによる占領後、徴兵された農民の多くはそのまま捕虜となり、植民地との貿易が途絶し、ドイツの戦時経済体制に組み込まれて農産物の生産量が激減、食糧や生活物資の供給は逼迫し、生活は困窮した。また戦場となった地域では、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ死亡した。
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコ等多くの植民地はヴィシー政権についた。しかし同政権の植民地政府に対する拘束力はほとんど無く、フランス領西アフリカ等は、自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。一方、インドシナは1940年にヴィシー政権の了解のもとで日本軍の駐留を受け入れ、フランス植民地政府と日本軍による支配が1945年まで継続された。
- ドイツ占領下の本土
パリを含む北部と西部地域は、行政機構はドイツの軍政下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。ドイツはフランスでもユダヤ人迫害政策を実施し、ユダヤ人は外出時にダビデの星を衣服に付けることを義務付けられ、強制収容所に送られた者も多かった。ドイツの支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成し、その動きはマキのように、右派から共産主義者までの広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側も対抗して親ナチス的民兵団を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、自己保身や利害のため、自発的にドイツ軍に協力(対独協力者)したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。
非武装都市として破壊をまぬがれた中心都市パリでは、ドイツの軍政下でインフラストラクチャーの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したが、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったので、占領開始から暫くの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れ、また制限は有ったが、オペラ等の芸術活動も継続された。アンドレ・ジッドやパブロ・ピカソなどの独創的な作家・芸術家にとって、ドイツ軍占領下のパリはヴィシー政権統治下と比べ自由だと感じられたという。ヴィシー政権の検閲はナチスより対象が多かったためである。
1942年には北アフリカのフランス植民地が連合国の勢力下になり、フランス全土は枢軸国側に占領された。ドイツによる経済収奪は激化し、ドイツ経済の4分の1がフランスからの収奪で成り立っている有様だった。また、食糧事情も悪化し強制労働に従事させられる国民も多かった。一方、レジスタンス運動も激化し、サボタージュや破壊活動が増大した。
1944年6月以降、フランス本土からドイツ軍は敗走。ドイツ軍撤退後、対独協力者たちは糾弾され、住民から報復、リンチされた者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、戦後長くその行為を非難された。
イギリス
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は単独でドイツと戦った。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。
また1942年頃まではドイツ軍の本土進攻が伝えられたことから、ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。なお1939年11月には、ロンドン航路についていた当時中立国の日本の日本郵船の照国丸が、テムズ川河口で機雷に触れ撃沈されている。
ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために漁業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり、国民は困窮した生活を余儀なくされた。
1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。
アメリカ
- 本土への攻撃と防衛体制
開戦後に、ハワイのパールハーバーにある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲や、日本海軍の潜水艦による砲撃を受けた他、西海岸一帯からハワイ、アラスカやメキシコにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。
これを受け、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯及びハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢におかれ続けたほか、1942年末までは学童疎開の実施が検討された。また、西海岸一帯でロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出るありさまであった。
さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されているすべてのアメリカドル紙幣にスタンプが押された[34]。また、このような対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が、西海岸一帯を中心で行われた[35]。
なお、ドイツ軍やイタリア軍による本土への攻撃は行われなかったものの、東海岸やメキシコ湾沿岸でのドイツ海軍潜水艦による通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[36]。
1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は終戦に至るまで継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[37]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
- 日用品と食料
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、他国同様に肉類[34]や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[38] 。
なお、同盟国もしくは中立国で、地続きでもある当時世界最大の食肉産出国のアルゼンチンやブラジル、メキシコやカナダからの食肉の輸入が出来たことや、本土での原油生産が出来たこと、そして本土が大きな戦災を受けることがなかったこともあり、1940年以降のイギリス本土やドイツ、1945年以降の日本本土のように食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が極端に滞る状況に置かれることはなかった。
また、1941年12月以降、一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[37]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[39]も行われ、生産台数及び販売台数が激減した。ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[38]。
- 国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[40]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。また太平洋沿岸では、日本軍による空襲や上陸に備えて学童疎開の実施が検討された。
- 人種差別
人種差別法の元で差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩りだされたものの、アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることはほとんどなかった。また、ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[41]ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していたものの、アフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、アメリカの勝利に大きく貢献した。
敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者が第442連隊戦闘団に志願して、戦場へと向かい、ヨーロッパ戦線で数々の戦功をたてたほか、日本語教育や暗号解読などの任務につき、アメリカの勝利に大きく貢献した。
また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
- 娯楽・スポーツ
バーやダンスクラブなどの営業制限が行われた。なお太平洋沿岸で行われた灯火管制の実施時には、レストランや映画館などの夜間営業も制限された。また、戦意高揚を目的に「カサブランカ」をはじめとする娯楽プロパガンダ映画が多く製作された。
なお、メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止を余儀なくされるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。
ポルトガル
- 本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。
中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[42]。
- 植民地
中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力のために連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。
さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[42]。
影響
損害
第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。軍人・民間人の被害者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。
戦後処理
敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦に挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている(再軍備も参照)。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国)は、その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本兵がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わって近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに、共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。
戦争裁判
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦、中華民国への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国側による爆撃より遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[注釈 20]、フィンランド、バルト三国に対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦いなどのドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。
また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留[注釈 21]の事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。
敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかったことを、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
新たに登場した兵器・戦術・技術
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
- 兵器
- 電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。
既存兵器の変化
第一次世界大戦で実用化が進んだ航空機は、大戦前から近代的な全金属製戦闘機であるドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイア、零式艦上戦闘機が実用化され、爆撃機もショート スターリング、ハンドレページ・ハリファックス、アブロ・ランカスターやボーイング B-17、B-24、B-29等、発動機4発の大型戦略爆撃機が連合国側で多数登場した。また三菱 一〇〇式司令部偵察機やデ・ハビランド モスキート等の高速偵察機、さらにメッサーシュミット Me 262等のジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機等、新鋭機が次々と戦場に投入された。発動機の出力は著しく向上し、レシプロで千馬力程度だった出力が過給機を含め、あらゆる技術がつぎ込まれ、小型で二千馬力、大型で三千馬力を超えた。そのため、もはやレシプロは限界を迎え、ジェット機の実用化までわずか数年でたどり着いてしまう。これら航空機に導入された様々な技術は、戦後は民間でも盛んに使用され、出力向上のための技術は後年、自動車用発動機の改良に様々な形で役立てられた。
同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊十五型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せた。この潜水艦における兵器格納技術はミサイル搭載型の潜水艦へと進歩していくことになる。
戦車に関しては、ドイツ軍が編み出した電撃戦という戦術により、求められる性能は第一次世界大戦から大きく変化した。機動力を持つ戦車が要望されたが、装甲が薄く生存性の低い軽戦車は初期に最前線から退き、主力となる中戦車が登場した。戦前にはヴィッカース 6トン戦車を源流とする軽戦車が主力であったが、内燃機関の発達と共に武装・装甲が強化され、急激に重量を増した。連合国の戦車は30トン級(T-34、M4中戦車)が主力となった。開戦初期には主砲は37mm口径が主力だったが、後期には75mm口径以上が必須となった。傾斜した装甲によりその防御力も強化された。同時に戦車へ対抗する兵器も、成形炸薬弾による個人運用が可能な(バズーカ、パンツァーファウスト)の登場により進歩した。
新たな兵器
この戦争では航空機の性能が著しく向上し、空中戦を制するため制空権が重要となり、そのためレーダーの性能とその保持は交戦国にとって重要であった。レーダーは1940年のバトル・オブ・ブリテンで重要な役割を果たし、そのため攻撃目標でもあった。技術革新により小型化され、地上配備から、艦艇、後には夜間戦闘機や哨戒機等、航空機に搭載されるまでになった。
アメリカやドイツ、日本等が開発した核兵器(原子爆弾)は末期まで完成しなかったが、その威力と影響は大きく、日本の降伏を早めただけでなく、その存在は冷戦時代を通じて現在も依然として非常に大きい。
大戦中期から暗号解読と弾道計算のためコンピュータが研究・開発された。
ドイツ空軍は、巡航ミサイルの始祖ともいえるV-1有翼無人飛行爆弾を開発・生産し、実戦投入した。しかし、当時の制御技術では精密誘導は不可能であった。
ドイツ陸軍は弾道ミサイルの始祖ともいえるV-2ロケットを実用化し、実戦投入した。これも当時の技術では、現在のミサイルほどの正確な誘導は不可能だったが、発射されたら迎撃不可能で、連合国側に実際の戦果より強い心理的影響を与えた。戦勝国にとって格好の技術略奪目標となり、競ってロケット技術に関する人物・物資を運び去った(アメリカの技術的略奪行為についてはペーパークリップ作戦を参照)。
兵站と機動
また、アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車、ジープ、シュビムワーゲンなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
戦術
戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V-1やV-2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした自殺攻撃である特別攻撃隊(日本)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争にも大きな影響を与えた。
技術・代用品の開発・製造
絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価
植民地戦争時代の終結
第二次世界大戦は帝国主義や植民地主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義と植民地主義を終結させ、植民地解放を促す引き金となった。最も没落したのが大英帝国で各植民地の宗主国の地位を手放さなければならない状況が訪れ、後の米国の人種差別撤廃運動にも繋がっていった。(ただし、これについては様々な意見が存在する。)
19世紀以来、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国等の連合国(白人諸国家)の植民地支配を受けて来たアジア諸地域は、大戦初期の日本軍勝利と連合国軍の敗北(特にシンガポールの戦いでのイギリス軍の敗北)により、一時的に白人宗主国の支配から切り離された。このため、非白人国が白人宗主国を打倒したという事実を、支配下にあった住民が直接目にした。これは被植民地住民にとって、支配者としての白人に対する劣等感を払拭する大きな力になった、と後年に中華民国総統の李登輝、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相、インドネシアのスカルノ大統領など、当時の被植民地出身の政治家たちが述べている。インドネシア政府が1945年8月17日に独立を宣言した時には、年月日の表記に神武暦が用いられ「2605年8月17日」と表記された。そして、日本軍敗北後、勝者となった白人宗主国が再びアジア諸地域を占領し、植民地支配を継続しようとしたが、現地住民は元日本軍兵士の一部も含め、独立のために立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動に寄与したと見られている。マハティールや李登輝からは、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。
日本の支配下にあった朝鮮半島や太平洋諸国が戦後に独立し、満州国や台湾は中華民国の領土に編入した。なお、戦場とならなかったサハラ砂漠以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジアより遅く、1960年以後に本格化したことは、第二次世界大戦が大きく関与しているという意見もある。
東ヨーロッパでは、勝戦国ソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国を併合、ポーランド、ドイツ、ルーマニア等から領土を獲得し、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア等に親ソ政権を樹立した。大戦後の冷戦時代、これらの国々を「衛星国」という名の新たな植民地として支配し、その状態は1991年末まで続いた。
大戦と民衆
第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わることを余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃、原子爆弾の投下、ホロコーストなど一民族への大量虐殺など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。
長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。
原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだことから、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。
『よい戦争』
特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)[注釈 22]』としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの復興の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。ハワイ州を除き国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いやイスラエル建国にともなう中東での戦いなどにつねに当事者であることを求め続けられ、国民は血の献身を求められ続けた。
降伏後の日本の占領過程では、連合国の代表として日本の占領政策を事実上独占し、戦犯指定をうけた岸信介や児玉誉士夫などを利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど高権的統治をおこない、またGHQや極東委員会の非武装原則(憲法改正における非武装条項、極東委員会1948.2.12など)に反し、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊を整備させ自陣営に組み込んだ」と、ソビエト陣営の影響下の共産主義者・日本の左翼などに批判されたもの、米国にとっては日本敗戦時から規定事項であり、予備隊を増強・再編を繰り返し、自衛隊という形で再軍備を果たした(ただし米国は負担軽減策として自衛隊を国防軍へさらに再編させるつもりであったが、日本国内の陸軍悪玉論により頓挫した)」[要出典]。
民主主義と戦争
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[注釈 23]など差別は解消されなかった[注釈 24]。参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[注釈 25]も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。
脚注
注釈
^ チェンバレン首相は「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカとユダヤ人である」と語っていた。
^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
^ アフリカ方面では、アフリカ大陸に広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアとチュニジア、モロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
^ イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
^ 奇しくも3年前の独ソ戦開始、バルバロッサ作戦発動日と同じ日付である
^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
^ 会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する。
^ なお、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった。さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えもある。最後通牒の項も参照。
^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
^ 当時はアメリカの植民地。
^ しかし後にポルトガル政府の暗黙のもと、両地を事実上統治下においた。
^ 当時はイギリスとオランダの植民地
^ オランダの植民地。
^ 現在のスリランカ
^ 正式にはドイツ占領下のフランス。
^ 戦死後海軍元帥となる。
^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
^ Joint Army - Navy Assessment Committee
^ カティンの森事件については1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
^ 日本兵のシベリア抑留については92年にロシアのエリツィン大統領が謝罪した
^ スタッズ・ターケル(著)、中山容(訳) 『よい戦争』 晶文社、1985年7月。ISBN 4794959761。
^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く法の下では平等であっても社会的な生活階層に占める人種割合や下位の社会階層から抜け出ることが人種により差が残るなど世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号としてを用いた。コードトーカー参照
出典
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関連項目
- List of Japanese government and military commanders of World War II
- かつて存在した特殊会社
- 第二次世界大戦の航空戦
- Aftermath of World War II
- Declarations of war during World War II
- Home front during World War II
- 第二次世界大戦の戦闘の一覧
- 第二次世界大戦の会談・会議
- 第二次世界大戦の軍事作戦の一覧
- 第二次世界大戦における女性
- 大衆文化における第二次世界大戦
外部リンク
- 国立公文書館アジア歴史資料センター
Imperial War Museum(英語)
World War II Database(英語)
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